沼津市明治史料館の先生が来て、沼津市という街は歴史が古い街だという話を聞いてきた。
そこで一時間弱の講演あったのでまとめてみました。
店長の家系は天保(1830-1844)の時代まで家系図がありますが、ちょうどその頃に街らしくなってきたのかな。
東海道宿村大概帳に記載されているかも・・・・なんて思うと、少しわくわくしてきます。。
以下、まとめ。
東海道と沼津宿
1.
沼津宿の成立
・慶長6年(1601)徳川家康は東海道の各宿に伝馬の定めを出す。
ア. 宿には伝馬36疋を常置すること
イ. 馬数1疋につき居屋敷30坪の地子(屋敷にかかる税)免除する
ウ. 伝馬1疋の積荷は30貫以下とする など5ヶ条の定めを出した。
これにより沼津宿は東海道12番目の宿駅として、川湊から発達した沼津が本町中心に、市、湊、宿の機能をもって交通流通の拠点として発展してゆく。
・寛永15年(1638)には常備人馬は100人100疋となる。
2.
一里塚と掃除丁場
・慶長9年(1604)家康は東海道・東山道・北陸道に一里塚を築かせた。
道路両脇に五間四方に高さ3メートルの盛土をして、その上に松や榎を植えた。
里程の目安や馬や駕籠の乗り賃の目安となった。
・沼津では日吉村と松長村、原西町に設けられた。
・一里塚の維持管理や、往復道の整備の為に各村に掃除丁場が割り当てられた。
沼津3町は自分たちで行った。
3.
沼津の城について
ア.三枚橋城は
・天正7年(1579)武田勝頼は三枚橋城を築く。城将は高坂源五郎。
・天正10年、徳川家康の臣松平康親が三枚橋城主になる。
・天正18年、秀吉は小田原の北条氏を倒し、天下統一すると中村氏次を城主とする。
・慶長5年(1600)関ヶ原の戦で徳川家康が勝利すると、翌年大久保忠佐を城主とする(2万石)。
・天正18年(1613)忠佐が亡くなると後継ぎなく、城は廃城となる。
・寛永18年(1641)城跡の屋形が火事で焼失、以後田畑になる。
※城下町としての側面は失われ、宿場町として本町中心ににぎわう。
イ.沼津城は安永6年(1777)水野忠友が2万石の大名として沼津藩の成立。
城を築く。
二代目忠成のときに5万石。
八代目忠敬の時に明治維新で、菊間(千葉県)へ移る。
沼津は静岡藩の支配となる。
明治4年7月の廃藩置県で静岡県となる。
4.
沼津宿の内容
①範囲・・・三枚橋・上土・本町
・文化3年(1806)成立の「東海道分間延絵図」より見ると
日吉村との境の浪人川の橋~狢川に架かる札辻橋~下町~川廓町~上土町~通横町~上本町~下本町~浅間町~出口町~草刈川の橋まで20町35間(2.2キロ)。
②元禄元年(1688)作成の「沼津宿絵図」によると
・三枚橋町 77軒 ・上土町 120軒 ・本町 313軒 ・合計510軒
・本陣 2軒 ・脇本陣 4軒 ・旅籠78軒 ・茶屋13軒
・510軒中 220軒 伝馬役 ・186軒 人足役 ・85軒 船役を勤める。
③三町の構成
・安永7年(1778)の三町の構成
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沼津本町
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沼津上土町
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沼津三枚橋町
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高 |
1233石449
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335石056
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687石989
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内 本田 |
1213石235
|
334石127
|
682石618
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田高 |
992石443
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292石997
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614石859
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畑高 |
220石792
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41石13
|
67石759
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新田 |
20石214
|
0石929
|
2石371
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田高 |
15石504
|
0石054
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1石173
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畑高 |
4石71
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0石875
|
1石198
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家数 |
867軒
|
256軒
|
192軒
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人数 |
3899人
|
1066人
|
796人
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内 男
女 |
1907人
1992人
|
563人
503人
|
379人
367人
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外鼓女 |
|
17人
|
153人
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沼津三町の構成
④「東海道宿村大概帳」によると、天保14年(1843)には
宿内人別・・・男2663人 女2683人 計5346人
宿内惣家数・・・1234軒 内 本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒
・本町は、延宝検地(1673~1681)ころは上本・下本・通横・魚町・仲町・くまたか町・新町・下小路・宮町・下河原・出口・浅間の12か町、幕末から明治にかけて、大門・東宮後・栄町・市道(五反田)・沼津新田が加わり18か町となる。
多くの御用商人や旅籠、神社の存在。
・上土は、上土・川廓・志多・新裏・八幡・七反田の6か町。
・三枚橋は、三枚橋・平・新田の3か町。
・城内(明治5年にできた町)は条内・追手・片端・添地・町方・西條の6か町。
⑤旅籠・本陣について
・天保年間(1830~1844)には旅籠55軒、大旅籠は上本町の元問屋、新問屋、下本町の藤田屋など18軒、間口6間~10間、玄関有。中旅籠21軒、小旅籠は16軒。
平屋や二階屋。
・本陣・脇本陣は幕府の役人や、大名の宿泊施設、帯刀許可。
天保年間には下本町の清水(281坪)・間宮(242坪)、上本町の高田(174坪)の3軒。
脇本陣は上本町の中村(とらや)の1軒で建坪151坪。
平屋・上段の間などあり。
(脇本陣には玄関や門のない家とか二階屋などがあった。)
⑥「御大名帳」(沼津宿本陣清水屋)寛文10年(1670)によると、
・寛文10年、大名や諸家の清水本陣利用回数は130数回で、9割は宿泊している。
・通行の用向きは参勤交代や大坂城・二条城・駿府城の城番の交替、幕府の使い等。(「沼津市史通史編 近世」より)
⑦問屋場は
・通横町に置かれ、本町・上土・三枚橋が1ヶ月を10日ずつに割って勤めた。
・「東海道宿村大概帳」(天保14年 1843)によると
問屋場3人・年寄5人・帳附6人・馬指3人・人足指3人・馬呼1人がおり、日々、問屋1人・年寄1人、帳附2人・馬指1人・人足指1人・馬呼1人が勤めたとある。
・慶応4年(1868)「上土町明細帳」によると
日々、問屋1人、年寄2人、勘定番1人、帳付1人・馬指2人・人足指2人・下働きの者2人が勤めた。
追記
2013年7月19日(金) 静岡新聞 朝刊
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